ザガイン・ヒルのジャパニーズパヤーと、烈兵団鎮魂碑~インパール作戦とは~(2歳&6歳:子連れミャンマー旅 ♯33)
【これまでの旅程】
出国前日:1週間39度前後の発熱が続いた次女の熱が出発日の朝下がり、夜9時に家出発。車中泊。
1日目:離陸90分前に成田空港到着。午後4時30分ヤンゴン着。タクシーでホテルへ。具合の悪い私をホテルに残し、パパと長女の2人で、レストランで夕食&シュエダゴォン・パヤー見学。
2日目:ヤンゴン市街地観光。夜行バスでマンダレーへ。
3日目:マンダレー観光。ミングォン、マンダレー・ヒル、マリオネットショー。
4日目(今日):5時30分起床。ホテルで朝食。タクシーで「マハムニ・パヤー」を見学するも、忘れ物に気が付いていったんホテルに引き返します。その後、マハーガンダーヨン寺院、ウーミントンゼ寺院、ザガイン・ヒルとまわりました。
【13:10】ザガイン・ヒルを後にします。
ザガイン・ヒルでは、入域料のチェックはなし。私たちは入域料のパスを持っているので、チェックがあっても大丈夫なんですが・・・、とにかくお金は必要ありませんでした。
この後は昼食ですが、ニコニコおじさんが「この近くに、ジャパニーズ・パヤーがある」と言うので、見に行ってみることに。
【13:15】ニコニコおじさんが連れて来てくれたのは、ザガインヒルからほんの2~3分の所にある「ジャパニーズ・パヤー」でした。
【2018.2 子連れミャンマ―旅行:4日目その6】
「ジャパニーズ・パヤー」。それは・・・。
日本の神社とかがあるのかなと思ったら・・・。
それは、第2次世界大戦でこの地に散った日本兵の皆さんを祀る、鎮魂碑などでした。
「烈兵団」とミャンマーの日本軍
私たちは、第2次世界大戦時にこの地で戦い、多くの戦死者を出した「烈兵団」の鎮魂碑にたどり着いたことはわかりました。
旅行時、「烈兵団」のことは全然知りませんでしたが、日本に帰ってきてから、この兵団のことを調べてみました。
<以下、私がウィキペディア等で調べた内容です。間違いがありましたらご指摘をお願いします>
第2次世界大戦勃発時、ミャンマーは「英領ビルマ」でした。イギリスの植民地だったんですね。
日本は、1941年12月の開戦以降、米領フィリピン、英領香港、米領グァム、仏領インドシナ(現在のベトナム)、オランダ領インドシナ(現在のインドネシア)、米領アッツ・キスカ・ウェーキ・ギルバード諸島などの太平洋の島々、英領マレーシア、英領シンガポールをあっという間に占領し、この当時から独立国だったタイ王国を通過して英領ビルマ(現在のミャンマー)の大部分を占領します。
1942年6月以降は、ミャンマーのほぼ全域が日本軍の占領下にあったようです。
しかし、その先、インドはイギリスの植民地の一大拠点。英領ビルマ(現在のミャンマー)とインドの間には険しい山岳地帯があるので、ここで侵攻作戦は一段落。
東はフィリピン・インドネシア・ギルバード諸島まで、西は英領ビルマまでを開戦1年で占領下に収めた日本は、補給線が伸び切り、ビルマから先の侵攻はすぐには難しい状況でした。
インドにはイギリス軍の大部隊がいて、イギリス本国はドイツの侵攻作戦への対応で手いっぱいでしたが、日本軍も広大なインド侵攻には陸軍の兵力不足で(なにせ日中戦争も継続中ですから)、下手にインドに手を出せば撃退されかねず、インド侵攻は、イギリス本国の早期降伏が大前提になっていたのではないかと私は想像します。
ところがイギリスはドイツの空襲ではなかなか降伏せず、ドイツもイギリスの頑強な抵抗で、上陸作戦を決行できません。
太平洋でも、1942年6月、日本海軍がミッドウェー海戦で大敗北。
その後のラバウル航空戦で航空隊の大消耗戦を演じ、航空戦力が弱体化したところで、高性能の戦闘機を開発して大量の空母を建造したアメリカの大機動艦隊が押し寄せ、連合艦隊の必死の防衛もかなわず、1944年になると日本領サイパンほか、太平洋の日本の占領地の島々が次々と陥落します。
その頃生まれたのが「烈兵団」。烈兵団の正式名称は「第31師団」。
1943年3月、バンコクで編成されたようです。
ビルマ方面を担当する「第15軍」の指揮下にあり、第15軍には4個師団くらいが属していたようです。
第15軍は、ミャンマーを防衛していたわけですが、太平洋方面の戦局悪化に伴い、飛行機部隊が次々と太平洋方面に引き抜かれていきます。
イギリス軍による小規模な反攻や破壊工作も増え、その対応に苦慮していたようです。
そこで、起死回生の案として実施することになったのが、無謀な作戦として悪名高き「インパール作戦」です。烈兵団は、この作戦に参加し、多数の戦死者を出した兵団でした。
インパール作戦と烈兵団
インパールは、インド東北部、山岳地帯にある街です。ここを占領しようと試みたのが「インパール作戦」。
ここは、中国大陸で日本軍に対して執拗に抵抗を続ける蒋介石の軍への補給物資を連合国が届けるルート(援蒋ルート)の拠点の1つで、ここを占領して戦闘機を配置することは、この「援蒋ルート」の分断を意味します。
つまりは、泥沼化している日中戦争の終結に結び付く可能性がありました。
また、インドの一部を占領することで、英領インドにおける独立運動に火をつけられる可能性もあります。
つまり、防衛ラインをミャンマーからさらにインド方面に前進させることの他に、アジア方面の戦争全体の行方に影響を与える可能性のある、戦略的な目的のある作戦だったのです。
当初、日本アルプス級の高峻な山岳地帯を200㎞以上も徒歩で進軍してその先の街を占領するという作戦は不可能とみられていたようですが、第2次世界大戦全体の戦局が急激に日本不利に傾く中、何とか起死回生の一発にならないかと、自分の立てたこの作戦に強いこだわりを持つ第15軍の牟田口司令官のがんばりもあり、1944年3月、インパール作戦は決行されます。
制空権は全くない中での、無謀な侵攻作戦でした。
1944年6月にはノルマンディー上陸作戦が行われて以降ドイツは守勢にまわり、同じ月、日本軍はサイパンを巡るマリアナ沖海戦で敗退。
今から考えれば、例えインパール作戦が成功したとしても、全体の戦局に与える影響はそこまで大きくなかったように私は思います。でも、少なくともこの1944年3月の時点ではドイツも日本もまだ占領区域を確保しています。
この戦争を勝つために、国際情勢を劇的に日本有利に好転させる可能性を持つ何かに賭ける価値はあった(少なくとも大本営はそう考えた)のだと思います。
ともかく、その戦略的な作戦に参加したのが、第15師団(祭兵団)、第31師団(烈兵団)、第33師団(弓兵団)の3個師団でした。
結果は惨敗。3,000m級の山々を200キロ以上も歩いて進軍した3師団でしたが、懐深くまでおびき寄せてから撃退するというイギリス軍の作戦にはまってしまい、インパールまであと15キロのところまで迫りながらもイギリス軍の強い反撃にあって立往生。
航空機による補給のない日本軍は、2か月もすると糧食も弾薬も底をつき、体力低下により赤痢やマラリアが流行、病死者・餓死者続出の事態となってからようやく現場の師団長の独断で撤退を開始(その時、第15軍の牟田口司令官はそれでも「撤退するな」と厳命していて、現場の師団長は、軍法会議で死刑になっても部下の命を救いたいと、独断での撤退命令を出したようです)。
大量の航空機による援護と補給物資の輸送があれば、この作戦も十分イケたと思うんですが・・・。残念ながら飛行機はなく・・・。
7月。ようやく牟田口司令官が作戦中止を命令。このときすでに、3個師団とも、総崩れどころかビルマへ戻るための「死の行進」の真っ最中でした。
イギリス軍は追撃作戦を実施。ビルマからインパールへ向かう道は、日本兵の白骨が連なり、「白骨街道」と言わたようです。
私たちが慰霊碑を訪れた「烈兵団」は、そんな苦難にあった兵団だったんですね。
ちなみにその後のビルマ(現在のミャンマー)の戦況はと言うと・・・。主力の4個師団のうち3個師団の大半が戦闘不能になった第15軍。当然、イギリス軍は大反撃に出て、ビルマに大挙して反攻してきました。
それを支える戦力は日本軍にはありません。飛行機もありません。
敗退につぐ敗退。最後の抵抗として、1944年12月~1945年3月まで、ここマンダレーのエーヤワディー川で戦力を集結して行ったのが「イラワジ会戦」。
連合国は戦車2,000両、航空機1,200機以上擁していたとか。それに対し、日本軍の航空機は60機くらいだったようです。戦車数は不明ですが、日本軍の戦車は弱かったうえに、数も非常に少なかったようです。
そして3月にマンダレー陥落。続いて、ビルマ軍(日本軍が現地人を訓練していた)の離反、ラングーン(現在のヤンゴン)放棄、タイ王国の離反など、雪崩を打って東南アジア方面の戦線は崩壊していきます。
この状況下では、インパール作戦を生き延びれたとしても、その後終戦まで生き延びるのは、さぞ難しかったことと思われます・・・。
立派な「ジャパニーズパヤー」に、ミャンマー人の心を見た
鎮魂碑や礼拝堂、パヤーは、戦友会の皆さんなどの寄付により建てられたということはわかります。
でも、ザガインヒルのこんないい所に、こんな立派なパヤーが建っていて、戦後70年以上経つ今でもきれいに管理されている。
これは、ミャンマーの人々の後押しなくては絶対にできないことだと、私は感じました。
ミャンマーの人たちが、日本軍の皆さんに親しみを感じ、この地で命を落とした、私たちの先祖である旧日本軍兵士の皆さんを見守ってくれている。
そしてそれは、なぜなのか・・・。
日本軍がこの地でかつて何を行ったのか知りたい・・・。
そんな風に感じた「ジャパニーズ・パヤー」訪問でした。
【13:30】車に乗り込んで、ジャパニーズ・パヤーを後にします。
最後に、これの文章を紹介したいと思います。
<パゴダ、礼拝堂建立の記>
このパゴダはウ・サンディマウンタ大僧正を始め サガイン市民有志の絶大な好意により烈兵団歩兵第百三十八聯隊戦友会及び同遺族の?金を以って 昭和五十一年一月建立された。この時この壮麗な計画のあることを知った電信第十九聯隊戦友会は 有志をつのり寄金を行なってこれに協力した。
その後多くの参拝者から 礼拝堂の無いことを惜しむ声が聞かれるに及び 電信第十九聯隊戦友会が浄財をつのり 昭和五十六年三月 礼拝堂が建立されるに至った。
仏心篤いビルマの人々の協力によって パゴダ建立を終わったいま われわれは仏陀の深い慈悲とお導きにより 両聯隊のみでなく ビルマ印度方面の戦いに散った全勇士の御魂がこのパゴダに集まり とこしえに安らけく瞑目されんことを希い 併せて日緬両国の友好が永遠に変わらないことを念願するものである。
昭和56(1981)年3月5日
烈兵団歩兵第百三十八聯隊戦友会
電信第十九聯隊戦友会
今回は少し重くなったかもしれません。次回は、気分一転、お昼ご飯を紹介します(^^)/。
なかなかうまくいかないんですよね~~~(^^;
※神秘の国を行く!子連れミャンマ―旅行記の第1話はこちら(全て無料)
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ディスカッション
コメント一覧
苦難のインパール作戦から約80年が経とうとしています。
大変、参考になります。
先人の辿ってきた道を、ひたすら急ぎ足で、進んできましたが、歩んできた道は、どうなっていたかを
知るべき時期が来ました。
とても良い文章を読ませて頂きました。
残されたこれからの時間を有意義に過ごしたいと思います。
とりあえず、インドのコヒマやインパールに行ってきます。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます(^^)/
本当に、戦後70年以上経つのにこの鎮魂碑は非常にきれいに管理されていて、びっくりしたんですよね。ミャンマーの人たちが日本や日本軍のことをどう思っていたか、よくわかると思います。
少なくともミャンマーの人は、日本軍を、侵略者でなく、英国からの解放者として歓迎してくれていたのだと思いますし、駐屯した日本軍の皆さんも、ビルマ人との友好に尽くしていたのだと思います。
インパールもコヒマもすごく行ってみたいのですが、ハードルが高そうで、私には無理です。 私の分もお参りして来てください!